チタキヨのヨ

妙齢女だらけ演劇ユニット「チタキヨ」の作・演出担当、米内山陽子のあれこれ

くらい

夜が暗くて本当によかった。
夜の暗さがわたしを助けてくれた。
通り沿いのぽつぽつとした明かり。
わたしを追い越す自転車。
先を歩くカップル。
真っ暗ではない。
仄暗い夜。
誰の表情も見えないから、
どんな顔してたっていい。
夜が暗くて本当によかった。

徹夜と仮眠

完全なる徹夜はもうできない。
ちょいちょい仮眠をとりつつ、エナジードリンクとカフェイン剤で乗り切る。

みたいなことをしなきゃいけないほどやばい状況になったのは自分のせいなんだけれどもー

カフェイン剤を飲んでから仮眠すると、仮眠の効果が上がります。
寝すぎなくて済むし。

ただトイレがちょう近くなる。

すげーどうでもいい記事だ

鍵の持ち主

10年くらい前、舞台監督と舞台美術をお願いしていた西廣奏さんに言われた言葉が忘れられない。
初めて奏さんとご一緒して、わたしは目の開くような思いをした。
奏さんは、いつもわたしの思いつかなかったような提案をしてくれて、作品のクオリティを上げてくれていた。不思議だった。この人の頭の中には何が詰まっているんだろうと思えた。
当時、若輩ものだったわたしは、恥も外聞もなくものすごく素朴に尋ねた。
「なんでそんなこと思いつくんですか?」

そうしたら彼女は事も無げに言うのだ。
「全部ヨナの中にあることだよ」
「ヨナの知らない、ヨナの抽斗の鍵を開けるのが、わたしの仕事なんだよ」

恐ろしく深く腑に落ちた。
自分もそういう人間でありたいと、強く思った。
そして、自分はいつもそうしてもらっていると、感じられる。

わたしはわたしの抽斗を自力で開けねばならないことも山のようにあるけど、
全部を自力でやっているとは思わない。
そして、誰かの抽斗の鍵を、さっと開けられるようになっていたい。

わたしの仕事の仕方に、強く影響を与えている言葉。

また奏さんと仕事がしたいなぁ。

つって

誰かにとって大事な自分であることは、恐ろしく気持ちがいい。
誰かを大事にすることも、恐ろしく気持ちがいい。
麻薬みたいなものだ。

だから、それが失われる気配がすると取り乱してわけのわからないことをしそうになる。
だけどよく見たらわたしはただのわたしで、月日は百代の過客だし、盛者必衰なのであるから、
できるだけ心を乱さずにいたい。
心が乱れるのはしんどい。
心が乱れると体が乱れて、そのうち生活が乱れて仕事が乱れる。
それが悪いループに嵌まると、抜け出すのに苦労する。

人の助けに感謝しながら、出来るだけ独立独歩で進んでいける人間になりたい。
人を助けたときに、ひけらかしたり傲ったりする人間ではいないようにしたい。
たまに、本当に近い人だけに、ちょっとだけ愚痴を言うことを許してもらいたい。
サウイフヒトニ、ワタシハナリタイ
つって。つってつって。

暗めの洞窟

暗闇が怖くなくなったのはいつからだろうか
真っ暗にしたほうがよく眠れるので、息子が寝た後にこっそり枕元の明かりを消して寝る。
お芝居や映画が始まる前の暗闇も、好き。
一人でなければ、郊外の街灯の少ない道をわくわく歩けるし、松明に頼った洞窟探検だって楽しめる。
誰かが隣にいると信じられる暗闇は、怖くない。

だから、やっぱり、夜中の一人の帰り道や、出張先のホテルは、暗いとこわい。
帰り道は視界の端をわざとぼやかして、何も見ないようにしながら帰るし、ホテルでは明かりをつけて、テレビをつけて、寝る。

わたしは一人がこわい。
そんなの多分みんなそうなんだろうけど。

神と突破口

自分の中になにか眠っていて、それを解き放てば今直面している問題が解決するような気がする状態のことを
「つぶれる直前のにきび」
と思うことにしています。
書けなくて書けなくて、でも何かの拍子に突破口が見つかって台詞があふれ出てくるような、
そんなものをいつも探している。

ただその突破口は周到な準備と考えの限りを尽くさないと、見つかってはくれません。
作品を作るとき「神が降りてくる」なんてなことがよく言われますが、
神だって、きっちり櫓を組まないと、降りてきてくれない。
土台がぐらぐらの階段を、神は降りてこようとは思わない。
だからわたしは必死に自分に鞭打って、地道な作業でもって櫓を組むわけです。
その櫓も、どんなにきっちり組んだって、ぐっとこなければ降りてきてはくれない。
あー、しんどいよう。

でも、やっぱり、ふと、
あふれ出す瞬間はあります。
その時は、頭の中でファンファーレが鳴り響き、天使はばんばんラッパを吹き鳴らし、鯛やヒラメは舞い踊り、躁状態なのに妙に冷静にキーボードを叩く。
アドレナリンがどばどば出る。
思いも寄らない台詞が出る。

この瞬間のために、仕事をしているんだなと思う。
そんなものをいつも探してる。

神席の力

ここ最近、どうしても自宅で執筆出来なくなっていて、自宅周辺の喫茶店で書いています。
電源があって、長居しても大丈夫っぽい空気があるところ、うるさすぎないところ。
一時期、コワーキングスペースなんかも検討して、ホームページなんかも見てみたんですけど、近所のそういうところは「ウェーイ」感がすごくて怖い。
結局今日も喫茶店の端っこでちくちく文字を連ねているわけです。

いくつかある行きつけの喫茶店のうち、1〜2席、どうあっても筆が進む席があります。
軒じゃないんです。席です。
この店の、この席でないと、というものが存在します。
わたしはそれを神席と呼び、非常に大切にしているのです。

先日、映画監督でありチタキヨのチラシを作ってくれている三ツ橋氏にこのことを話したら
「そこで筆が止まったときの恐怖感すごくない?」
みたいなことを言われて、ハッとしました。
確かにそうだ。
このジンクスが崩れたとき、わたしはいったいどこで書けばいいのや。わからん。怖い。

それからはいっそう神席を大切に扱うようになりました。
多少詰まったくらいでは神席には行きません。
いくつかの、優秀な席をまわり、本当にどうしようもなくなったときだけ、神席に行く。
結果書ける。やっぱ神席すげえ。
いよいよ神席への精神依存がすごくなってきました。
まじ、これで書けなかったらどうするんだ。

というわけで、わたしは今神席にいます。
息子を学童にやり、迫る〆切に怯えながら、神席で執筆しています。
神席よ永遠に。
ただいつか、わたしはここでも書けなくなる。

ああおそろしい。
それでも書くのだ。書かねばならんのだ。

こういう綱渡りが、じつはちょっと気持ちいい。