チタキヨのヨ

妙齢女だらけ演劇ユニット「チタキヨ」の作・演出担当、米内山陽子のあれこれ

フラッシュバックする

公演が終わり、平成も終わった。

令和になってひと月を迎えようとしているいま、振り返ろうと思う。

チタキヨ40歳記念公演「フラッシュバック」の登場人物、森永小夏について。

 

登場人物は自分を投影させているのかと問われると、投影することもあるし、そうではないこともある、と答える。

1人の人間が書いている以上、わたしの中の何かは投影されているはずだ。

とはいえ、そんなことばかりしていたらずっと書いてはいられない。実体験を描くことや、自分の感情を昇華させるのが作家の仕事ではないと思っている。

では作家の仕事とは何か。

そこにいる登場人物を描くこと。登場人物たちのうねりが物語を進めること。

わたしにとっての作家の仕事はこれだ。

そうやって、ここ10年近く劇作家をしてきた。

ただ、今回は勝手が違った。

深く自己投影した登場人物がいた。

田中千佳子が演じた森永小夏だ。

俯瞰が強く、受動的で、しかし与えられたものはきちんとこなす。諦観していて、他人事で、だから傷つかないように身をかわす術が上手くなったひと。

この森永小夏の視点を俯瞰から主観に導くことが、今回最も苦労したところだ。

わたしが、今もそのような人間だからだ。

つまり、わたしがわたしを説得し得なければ、小夏はイエローバード には戻ってこない。

小夏は劇中でも傷つき、苛立ち、間違え、誰かを傷つけてしまい、しかし表面上はうまくやる。やれてしまう。柔らかな心を硬い金属の箱に閉じ込めて、平気なふりをし続けられてしまう。

真帆にも美月にも救えなかった小夏の手を引っ張ったのは、中岡だった。

舞台を降りて去ろうとする小夏と中岡のシーンが、まだ諦める前の小夏が、諦めてしまった中岡を説得しているように見えた日があった。

役と時間が逆転して、2人が同一人物の過去と未来になったように見えた。

その時、なぜ自分がこのシーンを書いたのかわかった気がして、全ての不安が吹き飛んだ。

福永マリカさんという才能と、田中千佳子という才能が、この時同じ場所にあってよかった。

本当にそう思った。

そしてライブシーンでお客さんたちが振ってくれた黄色いライトが有り難かった。

ほんの少しだけでも、小夏の胸に火を灯したかった。

それは大きな一歩でなくていい。

迷い震えながら小さくつま先を出すような、そういう一歩であればいい。

ラストシーンの松橋と小夏は、高校生を通り越して10歳のふたり、のようになった。

2人がお互いに芝居を預けあっていた。

そして静かに静かに、この物語は幕を閉じた。

客席で消えない黄色いライトが、小夏に小さな火が灯ったことを表しているようだった。

小夏が変わったからわからない。

けれど、小夏は変わりたいと思ってくれたんじゃないかと思う。

 

稽古を重ねていくにつれ、小夏はわたしではなくなった。

小夏は小夏になった。

ああ、羨ましいな。

小夏、わたしも変わりたいよ。

40歳おめでとう。