チタキヨのヨ

妙齢女だらけ演劇ユニット「チタキヨ」の作・演出担当、米内山陽子のあれこれ

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「ふりむかないで」無事幕が下りました。
作家として戦うことができたし、舞台手話通訳としても挑戦ができた、楽しい公演でした。
プロデューサーの井上さん、演出の広瀬くん、出演者とスタッフの皆さんに、なによりお客様に感謝。
本当にありがとうございました。


その公演のさなか、大伯母を見送った。
ごく私的なことではあるけれど、ここに書いておきたい。

大伯母は、父方の祖父の長兄の妻だ。
わたしは幼い頃、曾祖母と大伯母夫婦が住む家の離れに、祖父と両親と住んでいた。
母の故郷である広島で生まれて、十歳まで東京のその家で過ごした。
庭を共有していて、大伯父が野焼きをするのをよく見物したし、おかずのやりとりや、電話のやりとり(わたしの家にはしばらく電話はなかった)、何よりとても優しく、暖かく育ててもらった。
祖母のような存在だった。

わたしの両親は耳が聞こえない。
そして、その両親、つまり父方、母方の両祖父母も耳が聞こえない。
両親は子どもを作ることを反対されていたそうだ。
また、耳の聞こえない子が生まれたら……
そういう考えが普通の時代だったんだと思う。
母は誰にも黙ってわたしを身籠もった。
安定期に入ると母子手帳が送られてくる。
それで、わたしを妊娠していることが知れた。
それから出産までの半年近くを、どう過ごしていたのかはわからない。
諦めに近い感覚で、見守ってもらっていたのかもしれない。
やがてわたしは生まれた。
耳に聞こえる子どもとして。
驚きと喜びでわたしは東京の家に迎えられた。
陽子と名付けられた。
わたしはよく喋り、よく笑う子どもだった。
曾祖母は毎日のように離れに来てわたしをかまい、大伯父も大伯母も孫のように接してくれた。
母方の祖父母は広島だったし、父方の祖母はわたしが生まれる前に鬼籍に入り、祖父は病に伏せていたので、わたしにとって、身近に接する大人は両親と曾祖母、大伯父大伯母だった。

大伯母の家でおねしょをしたことがある。
もう十歳になろうかという時だった。
恥ずかしさと焦りで縮こまるわたしの布団を、誰にも何も言わずばれないように干してくれたのは大伯母だった。
敬老の日に大伯父と大伯母にプレゼントをしたら、涙ぐんでいた。
大伯母の作る卯の花の味。
大伯母は穏やかな人で、声を荒げることをしなかった。
悪いことをしたときは、穏やかに窘められた。
大伯母のわたしを呼ぶ声。
台所での大伯母の振るまい。
何気なく積み重なっていく日常に、大伯母はいた。
やがてわたしは十歳になり、広島に越した。
それから大伯母とは暮らしていない。
もっと会いに行けば良かった。
もっと優しくすれば良かった。

月並みな言い方だ。
だけど、本当に優しくしてもらった。
大好きだった。
本当に寂しい。