服という呪い
先日、友人の衣裳デザイナー、知美さんの「衣裳ワークショップを作る研究会」、通称「あびらぼ」に息子と連れ立ってお邪魔して来た。
昼下がりの公民館の和室で、彼女の衣裳作りのノウハウを、スライドを流しながら(ノートPCの画面を10人近くが食い入るように眺める様がおかしかった)レクチャー。
そして実践。
実践では、家にある古着を衣裳にリメイクするので、もうサイズアウトしてしまった息子のカバーオールを持ってゆく。
参加者一人一人が持ち寄った服のエピソードを話し、それに鋏を入れて、組み合わせて、別のものを作る。
この、「鋏を入れる」という行程が、個人的にはセンチメンタルな部分にぐっと来た。
他の参加者の方も触れていたが、この実践は、鋏を入れると言う事が大きくキーになっていたように思う。
鋏を入れるのが自分なのか他の人なのかと言う部分でも、印象が大きく変わるし、すごく刺激的。
どこを、どのように、なぜ、だれが、切るのか。
スリリングな作業だ。
そして、否応無しに自分を振り返らざるを得ない。
その服が、自分のいい時を共に過ごしたのか、悪い時を共に過ごしたのか。嫌な自分を捨てられるように持って来た服と、「ありがとう、長い間お疲れさん」と持って来た服。
ここまで来ると、服はもう怨念の塊だ。
そしてそれを、鋏でじょきん、と切ってしまう。
鋏で切られた服は、別の誰かの怨念と組み合わさって、別の衣裳になり、新たな意味を背負う。
レクチャーの時に、彼女の作品の一つを見せてもらった。
ぬいぐるみを解体してたくさん縫い付けられていたジャケットは、たくさんの霊に取り憑かれている人の背中にも見えた。
息子のカバーオールには鋏は入らなかった。
次回は是非入れてみたい。入れてもらってみたい。
そして、新しい服になったところを見てみたい。
上手くまとまらないのでしばらく考えていたが、もうちょっと考えたい課題。
写真は知美さんの作品を纏っている息子。
まるで王蟲。